図書カード:No.00022

北海道殖民地撰定報文 完
文献名 北海道殖民地撰定報文 完
文献名よみ ほっかいどうしょくみんちせんていほうぶん かん
著者名 北海道廳第二部殖民課
著者名よみ ほっかいどうちょうだい2しょくみんか
初版発行日 1891年3月7日
底本 北海道殖民地撰定報文 完
編著者  
出版社 北海道出版企画センター
復刻発行日 1986年5月15日
調査に使用 1986年5月15日復刻版


北海道殖民地撰定報文 完

緒言 (同書冒頭に掲げられた「緒言」から。現代語訳・平田剛士)

北海道は、面積6918方里(10万6537.2km2(訳注)と、四国・九州の二つの大きな島を合わせて2倍したのとだいたい同じ大きさである。内陸部には広大な平地がたくさんあり、農業に適した肥沃な場所も少なくない。ところが、これまでこのような調査が行なわれたことがなかったため、せっかく北海道に移住した人たちの中には、土地選びに失敗して、開墾に着手した後になって土地が痩せているのが分かったり、水害が起きたりして、数年間の努力が水の泡になって、けっきょく定着できずによそに移らざるを得ないという不幸な目に遭ってしまう人が少なくない。

(訳注)1里=3927.3m、1方里=15.4km2として換算した。

そこで、全道の原野を実際に視察して、地形・面積・土壌の性状を観察・調査し、水害の記録や交通事情なども調べて、その結果に基づいて地図を作成した。これを詳しい解説文とともに刊行し、広く多くの人に提供する意義は、単に人々に北海道移住をうながすだけにとどまらず、これから北海道殖民事業を進めるさいの最も重要な基礎資料となることは間違いない。そう考えた岩村通俊(いわむら・みちとし)・北海道庁初代長官(在職期間1886~1888年)が、北海道庁第二部長の堀基(ほり・もとい)理事に指示して、この殖民地撰定事業を実施した。

1886(明治19)年、私(内田瀞)は殖民地撰定主任を拝命し、同年8月下旬、十河定道くんといっしょに、初めて調査を開始した。すでに晩秋に差しかかっていて、石狩国(いしかりのくに)の空知(そらち)・夕張(ゆうばり)の2郡と、胆振国(いぶりのくに)の千歳(ちとせ)原野、勇払(ゆうふつ)原野を踏査したが、12月に雪が積もってしまったので、調査を中断して本庁に戻った。北海道庁は、このプロジェクトに最優先で取りかかる必要があると考え、1887(明治20)年には、柳本通義くんと福原鐵之輔(てつのすけ)くん、さらに助手2人がスタッフに加わった。この年は、私を含め6人が3つのチームに分かれて石狩川流域の原野を踏査した。翌1888(明治21)年は、さらに人数をかけて北海道全土の調査を完了させることになり、調査チームは12に増えた。この後、福原鐵之輔くんが室蘭郡長に異動となったため、私こと内田瀞と柳本通義くんがリーダーを務めて、それぞれ天塩国(てしおのくに)と十勝国(とかちのくに)を踏査した。1889(明治22)年、さらに天塩国・十勝国の調査を継続しながら、釧路国(くしろのくに)、根室国(ねむろのくに)、北見国(きたみのくに)、後志国(しりべしのくに)で原野の測量を実施し、道内すべての原野調査を完遂した。この調査の結果にもとづき、農耕・牧畜可能なおよそ28億6660万坪(9476.4km2)の土地を殖民地として撰定した。

ふりかえると、調査期間としてほぼ4年、また3万円あまりを費やしたが、この調査によって、北海道内の主要な原野だけでも、武蔵野の原・宮城野の原の面積に匹敵することが判明した。小さな原野は他にも各地にみられ、それらを合わせればさらに大面積になることは言うまでもない。

北海道の内陸の原野は、うっそうとした森林に覆われ、あるいはイバラが繁茂し、またあるいは湿原・沼地になっているところもある。道路もなく、宿泊できる家屋もない。こうした環境を踏査するにあたって、われわれは食料を持参し、刃物やノコギリを携行したうえ、旧土人(先住民)に道案内してもらいながら、ヤブを切り払って道を作り、テントで雨露をしのぎ、丸太を刳りぬいて舟を作って川をたどるなどした。その苦労はとても語り尽くせない。人の背丈を越えて草木が密生して近くまでたどり着けず、木に登ったり、崖をよじ登ったりしてやっと原野の全体像を一望して方角を確認するなど、危険な方法で調べなければならない場所も少なくなかった。また、前もって巨木を切り倒し、ヤブを刈り払ってから、測量器具を使って土地の高低や距離を測定した。調査に時間を費やしながら、精密な測量ができなかったのも、こうした理由による。一例をあげると、福原鐵之輔くんは1887(明治20)年、石狩国上川郡の原野の測量に着手したが、終了するまでに半年近くを要した。当時は一面がイバラで埋めつくされ、道も通っていなかった。札幌から丸木舟を使って石狩川をさかのぼり、神居古潭(かむいこたん)から先は舟で進むのをあきらめて徒歩に切り替え、9日間かけてやっと上川に到着することができた。それからわずか4年後の現在、陸上には馬車道が開通し、川は汽船が運航しているし、岩見沢ー滝川には鉄道さえ開業間近である。測量当時はウサギ・キツネ・ヒグマの巣窟だったところが、いまでは永山村、旭川村に変貌して、駅を発着する馬車の騒音と、ニワトリや犬の鳴き声が混じり合って聞こえてくる。札幌から上川まで1日で行けるようになった現在、上川原野の測量に半年もかかったなんて、だれも想像もつかないだろう。夕張原野、空知原野、トック原野なども、入植者たちの開墾によって、2~3年前とは見違えるほどになった。石狩国の現在の原野のようすは、この報文に記述されたものと大きく異なっていることに留意されたい。

この調査のスタッフは以下の16人(うち5人は中途参加)である。

技師試補佐 柳本通義
技師試補佐 福原鐵之輔
技手 十河定道
技手 松尾萬喜
技手見習い 大橋淳蔵
技手見習い 古林芳三郎
技手見習い 備山本信
技手見習い 河村一介
技手見習い 井瀬信賢
技手見習い 鈴木尼之助
技手見習い 神雄之助
技手見習い 森貞蔵
技手見習い 丹道彰
技手見習い 門田啓太郎
技手見習い 崎野人也
技師 内田瀞

北海道庁5等技師 内田瀞(うちだ・きよし)

1890(明治23)年12月