HOME > 先住権の地図 > 1899年の新冠郡

更新日 2023/05/16

1899年の新冠御料牧場

新冠御料牧場図(新冠御料牧場沿革史から)

新冠御料牧場『新冠御料牧場沿革誌』(1896)から。

kimpetatuy北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文 日高國』(1899)から、新冠郡・新冠御料牧場のパートを抜粋して、現代文に書きくだしてご紹介します。〈〉内は原文の引用(漢字は常用漢字に置き換えている場合があります)、()内は難読漢字のよみ、現代語訳者の補足、説明など。コラム記事は現代語訳者のコメントです。この現代語訳作業は進行中のプロジェクトであり、誤訳・誤字・脱字のあることをご了承ください。発見次第、お知らせなしに修正しています。(平田剛士)

1899年の新冠御料牧場 にいかっぷごりょうぼくじょう

地理

新冠川を挟んで、厚別川を西側の境界線とし、東側は染退川(静内川)右岸(西岸)の平原とそれに続く丘陵地と、さらに染退川を渡ったプラリ(ペラリ?)地区まで、北側は笹山の山麓、南側は海沿いの国道と高江村・去童村(さりわらんぺむら)・下下方村(しもげぼうむら)に接している。四辺はそれぞれ数里(8~12km)ずつに及び、面積は1億1532万坪(381km2)あまりある。北部が山岳地形であることを除けば、場内はおおむね丘陵地形で、丘と丘の間に広がる平坦地も乾燥しているところが多い。原野にはカシワ林が点在し、密生している場所もあるし、またいたるところに荻茅(クサフジ)が繁茂していて、馬の脚が隠れて見えないほどである。春から夏にかけて、放牧馬たちはこれを食べることもできるし、草陰で直射日光を避けることもできるだろう。

標高の高い北部や川沿いには、ハンノキ・カツラといった樹種の巨木が密生している。また地表面はササに覆われ、あたかも〈青苔と一般冬期堆雪中に抽出し〉放牧馬たちはみんなそのおかげで体力をつけて肥え太ることができ、疲れたり痩せたりせずにいられる。

場内のあちこちに渓流が流れている。厚別川支流のリビラ川、ビウカ川、元神部川、受乞川など。また新冠川水系のアクマプ川、マウニウシュオロ川など。さらに染退川(静内川)水系のビバウ川、幕別川、パンケペラリ川、ペンクペラリ川などである。厚別川と新冠川の間には、ポロセプ川、ポンセプ川などが流れている。どの川の水も飲用可能な清涼水である。

牧場内は3つに区分されている。厚別川と新冠川に挟まれたエリアを「旧牧場」(面積8600万坪=284.3km2あまり)、新冠川から染退川までのエリアを「新牧場」(2550万坪=84.3km2あまり)、染退川東岸エリアを「ペラリ」(310万坪=10.3km2あまり)と呼んでいる。


沿革

明治初年、開拓使の官僚だった北垣國道(きたがきくにみち、後の北海道庁長官)氏が北海道の東海岸を巡視したさい、新冠地方が馬の放牧に適した地形をしていることを発見し、浦河地方の野生馬を新冠に移してきた。開拓使は1872(明治5)年、馬の品種改良に取り組む必要があると判断して、新冠をその本拠地に決め、およそ2億坪(661.2km2)を囲い込んで牧場を開設した。1873(明治6)年には、新冠郡トキツトに厩舎・牧柵・監視員の宿舎を建設し、日高地方の各地から計2262頭の野生馬を集めて、放牧を開始した。これが新冠御料牧場のはじまりである。

1875(明治8)年、南部地方(盛岡・八戸地方)から種牡馬十数頭を購入するとともに、馬市を開催して「不良の馬」441頭を売却し、少しずつ品種改良が進み出した。

1877(明治10)年、名称を「新冠牧馬場」と変更。同年9月、開拓使「お雇い」のエドウィン・ドン氏の指導で牧場の面積を2059万坪(68.1km2)あまりに縮小し、ピパウ川沿いに新しい畜舎を建設、また牧場を7つのエリアに分割した。「牧場の規模があまりに大きすぎて管理が行き届いていない」という評価を受けての規模縮小だった。これ以降、新冠郡に属するエリアを「旧牧場」、静内郡に属するエリアを「新牧場」と呼ぶようになった。同じ年、胆振国(いぶりのくに)幌別(ほろべつ)の牧場が廃止され、そこで飼育していた官馬281頭を新冠牧馬場に受け入れる一方、「不良の牧馬」350頭を売却している。

1878(明治11)年、胆振国(いぶりのくに)漁村(いざりむら)の牧場が廃止され、そこで飼育していた洋種馬・雑種馬などをすべて新冠牧場に移した。同年には静内郡幕別村(まくべつむら)に30万坪(99.2ha)の土地を確保して、このうち8万4000坪(27.8ha)あまりを開墾して、雑穀や牧草の栽培をはじめている。このほか「不良の牧馬」400頭以上を売却した。また野犬が出没してひんぱんに馬を襲うため、近隣在住のアイヌにイヌの飼育を禁じた。同年8月、馬たちの間で「ストラングルス」の感染が広がり、新冠郡内だけで1280頭の馬が罹患した。さいわい、重症化して死亡する馬は少なかった。

1879(明治12)年5月、民間所有の牡馬を、新冠牧場の内国種(100頭を上限)に交配させた。

1880(明治13)年、洋種2頭をアメリカから購入した。

1881(明治14)年、「不良の馬」417頭を売却。

1882(明治15)年、開拓使が廃止され県制に移行するにあたって、新冠牧場は農商務省が直接管轄することになった。同年7月、西郷従道・農商務大臣らの一行が新冠牧場を視察し、事業の大幅な拡大が計画された。それは、新旧牧場の面積を2000万坪(66.1km2)あまり増やす、というもの。

1883(明治16)年、牧場は北海道事業管理局に移管され、事業拡張のために現金2万円が交付された。同年8月、「彰仁親王殿下」が新冠牧場に「臨場」した。同年12月、牧場は宮内省に移管された。

1884(明治17)年、「洋種馬胤付(たねつけ)規則」を制定して、札幌県下の民間(牧場)に施行した。同年にはオーストラリア産種牡馬4頭、アメリカ産種牡馬1頭を導入している。

1885(明治18)年6月、新冠郡大狩部村(おおかりべむら)の2100万坪(69.4km2)あまりの土地を牧場に編入。

1886(明治19)年2月、牧場は御料局に移管され、「新冠御料牧場」と称することになった。1884(明治17)年に定めた洋種馬胤付規則は廃止。

1886(明治19)年、アメリカから購入した牝馬3頭と、澳国(オーストリア)産の牝馬1頭が到着。

1887(明治20)年、英国で買い付けた種牡馬が到着。

1888(明治21)年、英国産馬2頭とハワイ産馬1頭を本省から新冠御料牧場に移した。同年10月、新冠御料牧場は主馬寮(しゅめりょう)に移管された。

1889(明治22)年以降、「不要馬」の払い下げ業務は、日高馬市会社に委託することになった。

1890(明治23)年9月、「新冠本場」に接続する土地2617万坪(86.5km2)あまり、新冠郡西部の牧場隣接地1700万坪(56.2km2)あまり、静内郡碧蘂村(るべしペむら)で314万坪(10.4km2)あまり、合わせて4632万坪(153.1km2)を新冠御料牧場に編入した。本省(宮内省)が購入した〈アルゼリー〉産牡馬1頭と、ハンガリー産牡馬1頭を受け入れ。

1891(明治24)年、下総(しもふさ)御料牧場(千葉県三里塚)産の内国種牡馬など14頭を受け入れ。

1892(明治25)年、静内郡各村からの要請を受け入れて、補助金700円を拠出し、下下方村から市父村(いちふむら)までの道路改修工事を実施した。

これに先だつ1890(明治23)年には、新冠御料牧場を独立会計で経営する方針が立てられ、1893(明治26)年、その目的を達成して純益を出せるまでになった。

1895(明治28)年、岩倉公爵らが来訪。同年9月、牧場の海岸部の40600坪(13.4ha)あまりを、国道用地として北海道庁に譲渡した。

1898(明治31)年、洋種馬2頭を1万4000円あまりで購入した。


現況

新冠御料牧場の事務所は静内郡市父村に置かれている。また場内各所に「看守小屋」を置き、牧場を管理している。場内には官舎・看守舎・厩舎・倉庫といった建物が合わせて47棟ある。場長から牧夫まで、職員数は23人である。 新牧場と旧牧場で繁殖方法は異なる。新牧場では、内国種の牝馬を一年中放牧していて、ここに内国種もしくは雑種の牡馬を導入して、自由に交尾させている。いっぽう旧牧場(訳注:原文では「新牧場」と記されていますが、誤記・誤植と思われます)では、洋種と雑種・内国種を飼養して、雑種馬の生産を専門にしている。洋種は常に舎飼い(毎夜厩舎に収容)、内国種・雑種は母子の離乳期に短期貫だけ舎飼いする以外は一年を通して放牧している。

洋種馬の飼料は、オオムギ、エンバク、大豆、トウモロコシ、牧草など。1頭1日あたりの飼料代は19銭だという。交配繁殖の成功率は50~60%である。

この牧場は非常に広大で、地形もよいので、とても容易に馬を育てることができる。場内はたくさんの区画に分割され、それぞれ草の生え方、ササの生え方などを見ながら、放牧場所のローテーションを組めるので、馬体サイズに適した量を食べさせることができるし、(過密放牧で)草の生長を妨げる心配もない。 場内の牧草畑は19万6500坪(64.8ha)、ほかに16万3590坪(54.1ha)の耕地がある。そこで収獲する牧草・雑穀は舎飼いの馬たちの飼料になる。従来はこれに加えて、外部から少量の飼料を購入していたのだが、1898(明治31)年は場内収獲分ですべてをまかなうことができた。栽培している牧草は、チモシー種とオーチャードグラス種である。

新冠御料牧場が馬の品種改良に鋭意取り組んでいることはすでによく知られているので、ここでは省く。現在使用している品種別頭数を掲げておこう。

新冠御料牧場・種類別頭数 1898(明治31)年9月末現在

  1歳 1〜2歳未満 2〜3歳未満 3〜4歳未満 4歳以上 合計
洋種牡馬 3 3 1 3 8 18
洋種牝馬 3 3 2 2 8 18
4回雑種牡馬           0
4回雑種牝馬 1 1     1 3
3回雑種牡馬 4 2   1   7
3回雑種牝馬 3 6 2 1 4 16
魯洋3回雑種牡馬           0
魯洋3回雑種牝馬   1       1
2回雑種牡馬 15 10 8 7 1 41
2回雑種牝馬 21 20 13 10 31 95
1回雑種牡馬 34 22 10 3 7 76
1回雑種牝馬 23 23 22 16 154 238
魯洋2回雑種牡馬   1     1 2
魯洋2雑種牝馬     1   2 3
魯洋1回雑種牡馬           0
魯洋1回雑種牝馬         3 3
退却雑種牡馬       1 1 2
退却雑種牝馬         6 6
内国種牡馬 156 155 111 20 64 506
内国種牝馬 189 169 106 52 577 1093
合計           2128

生産馬の販売は、日高馬市株式会社に委託している。同社馬市を通して売却する場合もあれば、牧場に直接やってくる買い手に売り渡すこともしている。販売先は北海道内各地と奥羽地方、また軍用である。新冠御料牧場産の良馬がこうした各地に広がり、それぞれの牧場の品種改良に寄与している場合も少なくない。 1897(明治30)年の販売頭数は318頭で、売却額は2万91円70銭だった。1894(明治27)年以降の平均価格を比較すると、次の表のようになる。

平均価格(円/頭)の推移

  1894年 1895年 1895年 1895年
和暦(明治) 27年 28年 29年 30年
内国種牡馬 36 28 45 55
内国種牝馬 18 17 25 37
雑種牡馬 85 91 101 141
雑種牝馬 60 35 50 52
退却雑種牡馬   46 63 70
退却雑種牝馬   23 23 40

 

1893(明治26)年に新冠御料牧場の独立経営の法律が成立して、毎年、収益が上がるようになっている。1897(明治30)年度の決算額は、経営費が1万9640円あまりだったのに対し、収入が2万7820円あまりであった。ただし同年は、洋種馬2頭の購入費として1万4535円を臨時に支出したため、全体としては支出が収入を上回る結果になった。臨時費を除けば、支出をはるかに上回る収入をみた。


参考リンク

新冠御料牧場『新冠御料牧場沿革誌』1896(明治29)年7月