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更新日 2023/07/14

1899年の新冠郡

kimpetatuy北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文 日高國』(1899)から、新冠郡のパートを抜粋して、現代文に書きくだしてご紹介します。先住民族アイヌの人名は、すでに広く知られている人を除き、姓を■マークで伏せています。アイヌに対して差別的・侮蔑的な表現がひんぱんに現れますが、当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、そのまま訳出しています。〈〉内は原文の引用(漢字は常用漢字に置き換えている場合があります)、()内は難読漢字のよみ、現代語訳者の補足、説明など。コラム記事は現代語訳者のコメントです。この現代語訳作業は進行中のプロジェクトであり、誤訳・誤字・脱字のあることをご了承ください。発見次第、お知らせなしに修正しています。(平田剛士)

1899年の新冠郡 にいかっぷぐん

地理

東部は静内郡(しずないぐん)に、西部は厚別川(あつべつがわ)を挟んで沙流郡(さるぐん)と接している。北部はポロシリ山脈によって十勝国(とかちのくに)河西郡(かさいぐん)と隔てられている。南側は海に面している。南南西から北北東に長い形をしていて、大きさは東西11里16町(44.9km)、南北11里11町(44.4km)、面積は37方里(570.7km2)、海岸線は3里20町(14.0km)。

十勝国との国境には標高6000尺(1818m)以上もあるトツタベツ岳・ポロシリ岳がそびえていて、それらからなる山脈は南の方向に延びてきて、新冠郡・静内郡の境界線上にある笹山に到達する。笹山の標高は2554尺(773.9m)である。そこから南部にかけては丘陵部である。

新冠川は、ポロシリ山脈から流れ出し、いくつもの支流を合流させながら、新冠郡の中央を流れてきて、高江村で海に注いでいる。川の長さは19里(74.6km)あまり。川幅は河口部で30間(54.5m)あり、下流部でなら丸木舟で移動できる。新冠郡の西端には厚別川が流れていて、この川も大きい。

新冠郡の大部分は山岳丘陵が占めていて、平野は新冠川沿いに3~4里(11.8~15.7km)ほどと、厚別川の東岸に少しみられるだけである。これらの川のそばの土壌はまあまあ肥えているので、農耕に適している。丘陵部の表土は、厚さ3~4寸(9~12cm)の黒っぽい腐植土の層の下に、厚さ5寸~1尺(15~30cm)ほどの火山灰の層がある。カシワ・ナラなどを中心とする森に覆われていて、土は痩せているが、牧畜には適している。

漁獲物・農産物の出荷最盛期には高江(たかえ)に輸送船が回航してくることもあるが、ふだんは下下方村(しもげぼうむら)との間で、荷物を馬の背に乗せて運んでいる。旧国道は海岸線に沿った道路で、強風・高波の時には通行止めになるのが常だった。1895(明治28)年に新しい国道の整備工事が始まり、大狩部村(おおかりべむら)~セップの間とオポマサラ丘陵を開削、また川に橋を架けて、交通の便がよくなった。ただ、そのほかの田舎道は未舗装のままであり、とくに厚別川東岸にはまだ道がないので、沙流郡厚別村から国道に出るルートしかない。

郡内は11の村に分割されている。

大狩部(オオカリベ)、葉朽(ハクチ)、受乞(ウケコヒ)、元神部(モトカンベ)、比宇(ヒウ)

これら5村は厚別川の東側に並んでいる。

高江(タカエ)、泊津(ハクツ)、姉去(アネサル)、去童(サリワランベ)、萬揃(マンソロエ)、滑若(ナメワッカ)

これら6村は新冠川沿いにある。

村々はいずれも小村である。

沿革

1799(寛政11)年に幕府の支配に変わる以前、新冠地方は松前藩家臣の工藤平右衛門氏の「給所」とされ、「新冠場所」と呼ばれて、運上屋・倉庫・漁業小屋などが置かれていた。1813(文化10)以降は、函館内淵町の業者・濱田屋佐治兵衛氏が場所請負人となる。1869(明治2)年2月、この地方は徳島藩の所領とされ、1871(明治4)年5月、徳島藩士の稲田邦植氏が支配人となったが、8月には開拓使の管理下に移り、沙流出張所が新冠郡を管轄した。開拓使は1872(明治5)年、新冠牧場を開設。同年、山田栄六氏が新冠郡の「漁場持ち」を請け負った。

1875(明治8)年2月、沙流出張所から静内出張所に移管。

山田栄六氏は水産税を滞納したため、「漁場持ち」を解任され、1876(明治9)年から細野光儔氏・青山藤吉氏に代わったが、同じ年の10月には漁場持ち制度そのものが廃止になった。

1879(明治12)年7月、郡区制が施行され、郡役所を勇払郡苫小牧に設置。1887(明治20)年には郡役所を浦河に移転。また、一時期は新冠郡の各戸町役場を高江村に設置したが、数年後には静内郡各村の戸長役場と合併した。

kimpetatuy1879(明治12)年の郡区制
〈明治12年7月、郡区町村編成法により札幌本庁外2支庁下に郡役所(石狩外20郡役所)及び札幌及び函館の2区を設置し、札幌本庁管下は明治13年3月、函館支庁管下は同年1月、根室支庁管下は同年7月それぞれ開庁。〉「北海道市町村自治制の沿革概要

この地域は、従来ピボクという地名で呼ばれていたのだが、「音(おん)が雅(みやび)じゃない」「馴染みがない」という理由で、1809(文化6)年に「新冠」と改称させられたと言われている。

もともと、新冠川や厚別川の沿岸部にアイヌの集落があった。1872(明治5)年、新冠牧場が開設されると、それにともなって、牧夫・農夫として雇用された和人たちが少しずつ住み始めるようになった。とはいえ、(大部分が御料牧場の敷地であるために)開墾の余地はほとんどなく、本格的な発展はいまだにみられない。1897(明治30)年末現在の人口は196戸、1002人である。

重要産物

水産物も農産物も、新冠郡の産物は乏しい。

1897(明治30)年の水産物

イワシ絞り粕 840石(151.5トン)
塩サケ 350石(63.1トン)
サケ筋子 1600貫(6000kg)
魚油 60石(10.8m3)

1897(明治30)年の農産物

大豆 1204石(217.2トン)
小豆 825石(158.8トン)

概況

新冠郡の中心は高江村である。学校・村医・巡査駐在所が設置され、商家や漁家がある。去童村にはアイヌに交じって和人が定住し、農業を営んでいる。その他の村々はすべてアイヌの集落である。ただしそれぞれ戸数は少なく、特に大狩部村、比宇村、滑若村はほとんど無人の寒村である。

海岸から内陸に向かって数里(8~12km)までの間を、新冠御料牧場が占有している。郡内11村のうち、御料牧場のエリアに含まれないのは、高江村と去童村の一部と、厚別川東岸にぽつぽつ存在するアイヌ給与地だけである。この御料牧場があるせいで、新冠郡に移住してくる人数は増えていないし、民間の開墾も進んでいない。郡内には戸長役場・郵便局がひとつもない。いろいろな手続きをとろうとしたら、静内郡下下方村まで出かけなくてはならず、不便である。

厚別川東岸のアイヌに対しては、1886(明治19)年から1890(明治23)年にかけて、授産事業の一環として農業指導が実施され、アイヌたちは役所の監督の下、耕作に従事させられている。いっぽう、新冠川沿岸のアイヌには農業指導は行なわれなかったが、1892(明治25)年ごろから開墾に従事するようになってからは、もっぱら農業で生計を立てている。ただし、新冠川沿岸は、泊津村以北はすべて御料牧場に属していて、アイヌは「借地者」とされている。

厚別川沿岸のアイヌたちへの給与地もまた、たくさんあるわけではない。加えて、農業にあまり熱心ではないというアイヌの性格から、各戸あたりの耕作面積は5~6反歩(50~60アール)から3町歩(3ha)ていどにとどまっていて、5~10町歩(5~10ha)まで面積を広げている人は数人しかいない。さらに、放牧地を確保できないために馬を増やすこともままならない。そこに1898(明治31)年の洪水が起きて、ほとんどの耕作地が被害を受けてしまい、全員が救助食料に頼って生活せざるを得なくなっている。このような状況ではあるが、ほかの郡のアイヌに比べると、新冠郡内のアイヌは堅実な暮らしを送っていて、出稼ぎに出る人は少ないし、概して朴直な雰囲気がある。

戸長役場は静内郡下下方村に置かれている。村医・学校が設置されているのは高江村だけで、新冠郡11村すべてをカバーしている。その他の公共事業は静内郡に統合されている。


1899年の大狩部村 おおかりべむら

地理

西部は厚別川を挟んで沙流郡厚別村と接している。北側は葉朽村、東側はポロセプ川を境に高江村と隣り合っている。西側は海に面している。村は全体に丘陵地形である。地表は厚さおよそ8寸(24㎝)の火山灰に覆われ、カシワ・ナラ・ハンノキ・カエデなどが生えている。

国道が丘陵部を通過している。静内郡(しずないぐん)下下方村(しもげぼうむら)まではおよそ4里(15.7km)。 「大狩部」という地名は、アイヌ語の地名オプンガウウンペに由来し、「ヤチカンバの生えているところ」という意味だという。厚別川の支流の名前である。

沿革と現況

この村は新冠御料牧場のエリア内にある。1889(明治22)年、ポロセプにあったアイヌの集落数戸を高江村のポンセプに移住させたため、現在は村に本籍を置く人は一人も住んでいない。厚別村に住んでいるアイヌが厚別川東岸に畑を開いている。またポロセプに御料牧場看守の家が建っているだけである。

kimpetatuyアイヌ民族への農業指導との名目で、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。加えて新冠郡・静内郡では、新冠御料牧場設置・拡張にともない、アイヌが移住を強制されました。(平田剛士)

村内のところどころに、少量の石油の湧いている場所がある。明治26(1893)年以降、何人かが試掘の許可を得ているが、まだちゃんと調べられていない。


1899年の葉朽村 はくちむら

地理

厚別川沿い、大狩部村の上流部に位置している。北部は受乞村に接している。火山灰層に覆われた丘陵地形で、森林が発達している。川沿いに少しだけ低地がある。村名はアイヌ語地名の「ハツクツ」に由来し、ブドウ・コクワの多い場所、という意味。

沿革と現況

もともとは数戸のアイヌ集落があった。農業指導事業にあたり、比宇村のアイヌ4戸を葉朽村に移住させたので、現在は8戸51人になっている。これらの人々は全員が厚別川東岸の「給与地」に住んでいる。

kimpetatuyアイヌ民族への農業指導との名目で、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。(平田剛士)

葉朽村は全村が新冠御料牧場に属し、河岸部の非常に狭い土地と、対岸の沙流郡厚別村にしかアイヌ給与地がない。1戸あたりの耕作地面積は1~3町歩(1~3ha)で、それで生計を立てている。土壌は肥沃なのだが、水害の常襲地で、1898(明治31)年の洪水でも耕地の大部分が荒廃してしまった。


1899年の受乞村 うけこいむら

地理

南北を葉朽村と元神部村に挟まれている。西方は厚別川を挟んで沙流郡厚別村に接している。葉朽村と似た地形をしていて、川のそばに少し広い平地がみられる。受乞の由来となったアイヌ語地名ウクルキカップは、「オモダカを採るところ」という意味。

運輸交通

大狩部村の国道からは1里15町(5.6km)の距離だが、道路がないので、いったん厚別川を渡ってから、厚別の国道に出るルートしかない。

沿革と現況

以前からアイヌの集落があり、現在の戸数は10戸、47人が居住している。和人は一人もいない。全員が河岸の低地に住んで、農業に従事している。

受乞村は全村が新冠御料牧場に属し、アイヌ給与地は厚別川そばのわずかな面積分しかない。1戸あたりの耕作面積はだいたい2~3町歩(2~3ha)だが、■■覚蔵氏は10町歩(10ha)に迫る面積を耕作している。しかし、明治31年の洪水では大きな被害が出たため、御料牧場地の一部を借りて開墾したいと全員が希望している。


1899年の元神部村 もとかんべむら

地理

南側は受乞村、北側は比宇村に接している。村の西方には厚別川が流れている。村内を東から西に向かって元神部川が流れて、厚別川に注いでいる。川沿いにわずかに平地がみられるが、村全体としては丘陵地形である。厚別村の国道まではおよそ3里(11.8km)。

沿革と現況

古来、アイヌが集落をつくって住んできた。アイヌに対する農業指導事業に合わせて比宇村から4戸を元神部村に移住させ、現在の戸数は17戸、住民数は100人である。和人は「寄留者」が一人だけ住んでいる。

kimpetatuyアイヌ民族への農業指導との名目で、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。(平田剛士)

元神部村は全村が新冠御料牧場に属していて、「アイヌ給与地」は川沿いの狭い土地にしかない。アイヌは全員が農業に従事していて、プラオを使用しながら、一戸あたり1~5町歩(1~5ha)を耕作している。なかでも■■孫一氏は約10町歩(10ha)の畑で作付けしている。また、御料牧場エリア内に9000坪(3.0ha)の土地を借りて開墾を試みている人もいる。賃貸料は年額6円だという。和人は農業のかたわら、鉱泉を加熱して銭湯を開設する計画を進めている。

1898(明治31)年に起きた洪水被害は甚大で、ほかの村々と同様に、住民たちは救援物資の貸し付けを申請して糊口をしのいでいる。


1899年の比宇村 ひうむら

地理

元神部村の北側、厚別川上流の左岸に位置している。村の北東部からピウカ川が流れてきて、途中で西にカーブして厚別川と合流している。村全体が山岳地形で、ピウカ川源流部の標高は3700尺(1121m)あまり。ナラ・カエデ・カツラ・トドマツなどが多い。

村名はアイヌ語地名ピウカに由来し、「川の古い痕跡」という意味だという。村から国道までは約4里(15.7km)である。

沿革と現況

以前はアイヌの集落があった。しかしアイヌ「救済」を目的に実施した農業指導事業に合わせ、元神部村と葉朽村に全戸を移住させた。現在はピウカ川のそばに御料牧場の看守家屋があるだけで、ほかにはだれも住んでいない。


1899年の高江村 たかえむら

地理

西方はポロセプ川を挟んで大狩部村と接している。北部は泊津村・去童村と隣接し、東部は静内郡下下方村に連なっている。南側は海に面している。東部・西部は丘陵地形。村の中央を北から南に流れる新冠川のほとりにわずかに平野部があり、川の東岸は湿原である。河口の西側の高台はチャシコツと呼ばれている。河口の東側沿海部は砂浜が続く。

村の名前はアイヌ語の地名タカイサラに由来するが、これは「タプコサラ」がなまったもので、「高皿」の意味だという。

運輸交通

東方面の静内郡・下下方駅までは1里21町(6.2km)の距離。海岸の砂浜に沿って平坦な道路が通っている。西方面は、新冠川に橋が架かっていて、丘を越えて海岸部に出る道がある。交通の便が悪いとは思えない。ときどきは高江湾に船が来て、沖合に停泊したまま、荷を上げ下ろしする。1897(明治30)年の入港数は汽船7隻、帆船8隻だった。

沿革

かつての新冠場所会所があった場所が、新冠川河口近くのタカエサラであった。1870(明治3)年、徳島藩の領有地にされ、農民2戸が移住してきたが、ほどなくこの地を去っている。1878(明治11)年ごろ、稲田邦植氏の家臣のなかに、染退地方から高江に越してくる人がいて、それ以降、入植者が少しずつ増えだし、徐々に村落が形づくられてきた。

戸口

1897(明治30)年末現在の戸数は55戸、人口は336人。このうちアイヌは31戸115人である。和人には広島県・香川県出身の農民が多い。

集落

新冠川の東岸そばに高江駅があり、その近くにホテル2軒、小売店3軒をはじめ商業者や漁家など20戸あまりが建っている。小規模ながら、ここが高江村の中心地であり、小学校・巡査駐在所・村医などもすべてここに集まっている。

農家は新冠川両岸にそれぞれ距離をあけて住んでいる。アイヌはトプケスベツ、オポマサラ、ポンセップなどに住んでいる。

漁業

1897(明治30)年の就業数は次の通り。

イワシ曳き網 3カ統
サケ曳き網 3カ統
旋網 1カ統
昆布採取船 8艘

新冠郡のほとんどすべての水産物が高江村から出荷されている。イワシ漁はそこそこ好調だが、サケは近年、減少している。昆布の生産量もそれほど多くはない。村内で有力な漁業者は山藤倉松氏である。

農業

入植する農民数が増え始めるのは1887(明治20)年ごろからで、そのころから穀類・豆類が生産されるようになり、1894(明治27)年から本格化している。現在の開墾済み農地の面積は120町歩(120ha)あまりで、このうち1町5反(1.5ha)は水田である。

小作者は、開墾着手から作付開始までの「鍬下期間」3年の条件を課せられ、通常年の1反あたりの収穫量は大豆1石2斗(216.5リットル)、小豆8斗(144.3リットル)、小作料は小豆1斗5升~2斗(270.6~360.8リットル)である。主な作物は大豆と小豆。

明治31年の洪水では農地117町歩(117ha)が被害を受け、なかでもアイヌの耕作地が甚大な損害を被った。

牧畜

村内に馬主が28人いて、飼育頭数は合わせて66頭である。一人で10~20頭を保有する馬主は5人いる。高江村オラリ地区に日高馬市会社の牧場がある。

商業

コメ・味噌や太物(着物)を扱う商店が3軒ある。商品のほとんどは函館から仕入れたもので、それを新冠郡の住民に販売している。そのほかには酒・菓子の小売店しかない。

風俗人情

特記することがらはない。人々は静穏である。アイヌの中にも農業に励んで品行方正な人が2~3人はいる。

生計

高江駅の近くに漁家や商店はあるが、そのほかはすべて農業で生計を立てている。ただし、農家で家計に余裕のある人は少なく、ほとんどが業者の仕込みを受けていて、その金額は1戸あたり150円に達している。アイヌの人々は農業のほかに漁場への出稼ぎなどの雇い仕事をして生活している。

教育

1885(明治18)年、日新尋常小学校が建てられた。現在の生徒数は34人である。アイヌの就学者はいない。


1899年の去童村 さりわらんぺむら

地理

東側は新冠川を挟んで姉去村と向き合っている。南は高江村に面し、西部は丘陵地形、北側は滑若村に接している。去童の村名は、アイヌ語地名のソリパライに由来し、「草履を見つけるところ」という意味である。高江駅までは2里(7.9km)ほど。道は平坦で馬車が通れる。

沿革

従来からアイヌの集落だった。1888(明治21)年、淡路出身の戸川文太郎氏がよそから移ってきて住み始め、1891(明治24)年以降、さらに数戸が移住している。

戸口と集落

1897(明治30)年末現在の戸数は22戸、人口は133人である。このうちアイヌは16戸、67人である。和人には兵庫県出身者が多い。新冠川のそばに人家がぽつぽつ建っている。

農業

戸川文太郎氏は1888(明治21)年に6万坪(19.8ha)の貸し付け地を開墾にいそしんでいる。それに続いてほかにも貸し付け地を取得して小作者を入れ、耕作させている人たちが現れて、やっと進歩し始めた。アイヌも農業の必要性に気づき、耕作を始めている。いまのところ、アイヌによる耕作面積は1戸あたり5~6反歩(50~60アール)から2町歩(2ha)ほど。和人では、戸川文太郎氏が13町歩(13ha)の畑を開いていて、それ以外の人たちは小作者を入れて平均6~7町歩(6~7ha)の面積で作付けしている。

1898(明治31)年の洪水では34町歩(34ha)が被害を受けた。

村内合わせて34頭の馬が飼育されていて、いずれも農耕馬として使役されている。

生計

和人は農業従事者ばかりだが、土地所有者は一人だけである。アイヌは農業のかたわら、漁場に出稼ぎに出ている人もいる。茅葺きの家に住み、粗末な衣類を着ている生活で、このたびの洪水被害でいっそう打撃を受けている。


1899年の泊津村 はくつむら

地理

高江村の北方2里(7.9km)、新冠郡東岸ぞいに位置している。その北側は姉去村に接して、東部は丘陵に遮られている。新冠御料牧場内にある小村である。泊津の村名はアイヌ語地名のポロハックツに由来し、「大きなブドウ・コクワのあるところ」という意味だそうだ。

現況

アイヌの集落である。1898(明治31)年末の戸数は17戸、人口は55人。全戸が御料牧場のエリア内に土地を借りて農業に従事している。1898(明治31)年の水害面積は33町7反歩(33.4ha)に及んだ。

村内の馬の数は13頭しかいない。人々の生活ぶりは去童村のアイヌと同じである。


1899年の姉去村 あねさるむら

地理

南側は泊津村に接している。西方は新冠川を挟んで去童村と向かい合っている。北部は萬揃村、東部は丘陵地帯を越えて静内郡目名村につながっている。全村が御料牧場エリア内にある小村である。川沿いにところどころ平地がある。 もともとの地名はアイヌ語アネサラで、「細いカヤ」という意味である。

高江村からは3里(11.8km)の距離。物資は馬の背に載せて運ぶしかない。

沿革

古来からのアイヌの集落である。1895(明治28)年、御料牧場が指示して滑若村と萬揃村のアイヌたちをこの村に移住させた。1896(明治29)年ごろ、アイヌの■■足氏が商店を開いたが、しばらくして閉店し、下下方村に移って店を再開した。

kimpetatuyアイヌ民族への農業指導との名目で、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。加えて新冠郡・静内郡では、新冠御料牧場設置・拡張にともない、アイヌが移住を強制されました。(平田剛士)

戸口

1897(明治30)年末の戸数は36戸、人口は119人である。このほか、萬揃村から移住させられてきた人たちが数戸、住んでいる。全員がアイヌで、新冠川の東岸に居住している。

農業

御料牧場が(強制移住の補償として)アイヌに貸し付けた土地は、規定により、他人に譲渡したり、抵当に入れて金を借りたりできない決まりになっている。このため、人々は各戸平均1町5反歩(1.5ha)ずつの畑で耕作をしている。自家消費向け作物をつくっているほか、少量ながら大豆・小豆を出荷もしている。村民の半分以上の人が馬を所有しているのだが、馬籍を調べてみると、4~5頭しかいないことになっている。これは、役場への届け出がすべて■■足氏(下下方村在住)の名義で行なわれているせいである。人々が、■■氏の経営する■■商店から仕込みを受けているため、このような状態になっているそうだ。

風俗・人情・生計

農業を生計の柱にしていただけに、今回の水害のせいで人々はひどく困窮してしまった。日用品を購入するにも、下下方村の■■商店の仕込み(融資)に頼らざるを得ず、負債額は一戸あたり20~70円にのぼる。

(生活文化は)遅れているものの、人々には素朴な雰囲気がある。

教育

アイヌの■■足氏が、1896(明治29)年、私財を投じて学校を開設した。アイヌで師範学校卒業の高月切松氏が招聘され、子どもたちに教え始めたのだが、ある事情のために1897(明治30)年5月、休校になってしまった。再開の見込みがないのは残念である。


1899年の萬揃村 まんそろえむら

地理

新冠川の東岸に沿って、姉去村の北方※里(※km)に位置し、全村が新冠御料牧場のエリア内に含まれる。笹山に源流を持つアクマプ川が村内を南西方向に流れて新冠川に合流している。村名はアイヌ語地名のマウニウシュオロコタンで、「ハマナスの多い場所にある村」の意味である。高江村まで4里(15.7km)の距離。交通は不便で、物資の運搬は馬の背に頼るほかない。

沿革と現況

もともとはアイヌの小さな村である。1895(明治28)年、滑若村のアイヌを萬揃村に移住させたために戸数が増えた。現在の戸数は23戸、人口は92人である。村民たちは全員、御料牧場からの貸し付け地を耕作して生計を立てている。馬を飼っている人もいるが、すべて■■足氏名義の所有馬で、書類上は馬を所有する村民は一人もないことになっている。村の様子は姉去村と同じである。


1899年の滑若村 なめわっかむら

地理

萬揃村の奥(北方)に位置し、新冠川上流域にあたる。山岳・丘陵地ばかりで平地はほとんどない。新冠川沿いに去童村に続く細い道がついているだけの、新冠郡内で最も辺鄙な寒村である。アイヌ語地名のヤムワクカナイが村名の由来で、「冷水沢」という意味だそうだ。全村が御料牧場のエリア内に組み込まれている。針広混交林が発達している。

沿革と現況

アイヌの小さな集落があったが、1895(明治28)年、新冠御料牧場の指令で、住民たちを萬揃村と姉去村に移住させた。1897(明治30)年末現在、滑若村に本籍を置く人数は15戸88人であるが、実際には3戸しかない。

kimpetatuyアイヌ民族への農業指導との名目で、地元のアイヌを集落ごとよその場所に強制的に移転させた当時の政策は、こんにちでは、政府による先住民族「強制移住」政策とみなされて、批判的に評価されています(たとえば小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』p56)。1885年ごろから数年にわたって沙流郡内の各地で実行された「強制移住」の根拠となったのは、1885(明治18)年発布の「札幌県旧土人救済方法」でした。加えて新冠郡・静内郡では、新冠御料牧場設置・拡張にともない、アイヌが移住を強制されました。(平田剛士)

■■足氏は、アイヌの資産家である。下下方村に自分の商店を開き、和人に管理させるかたわら、滑若村から元神部村までをまたぐかたちで合計113万6000坪(375.5ha)あまりの有償貸し付け地を取得して牧畜業を展開し、内国馬250頭、雑種馬159頭を放牧している。■■氏は近年、資産を減らしてしまい、かつての信用を失いかけているのは残念である。