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更新日 2022/10/10

北海道は海浜から「所有化」された
—明治初年開拓使土地政策とアイヌ民族—

瀧澤 正


たきざわ・ただし 1943年、北海道岩内町生まれ。山形大学文理学部卒業後、北海道で高校教員となる。2009年、北海道大学大学院文学研究科歴史地域文化学後期博士課程(日本史学)単位取得退学。博士(文学)。構成作品に『おれのウチャシクマ あるアイヌの戦後史』(小川隆吉著、2015年、寿郎社)。


みなさん、はじめまして。今夜はお招きありがとうございます。私は、前職は高校教員でした。2004年に退職してから5年間ほど、北海道大学大学院でアイヌの近代史を中心に少し勉強しました。きょうは、その博士課程で執筆した論文「明治初年漁場政策とアイヌ民族」[1]の一部をご紹介します。みなさんのご期待にどこまで応えられるか分かりませんが、どうぞお聞きください。

私の研究課題の基本的なモティーフは、近代的土地所有制が、それまで土地制度の確立していなかった蝦夷地=北海道において、国家権力によって施行されるプロセスと、その流れの中でアイヌ民族がどんなふうに排除され、あるいはその波の中でも生き残り得たか、そのあたりにあります。

「地租改正」は北海道で一足早く始まった

ご承知のように、日本は1873(明治6)年から本格的な近代化の時代を迎えます。この年、土地の私的所有制、近代的土地所有制というものが全国一斉に施行されることになります。いわゆる「地租改正」で、小学校でも習う有名な政策です。地租改正の基本的な主旨は、土地を持っている人に公式に所有権を与えて、その所有権を売るなり利用するなり、所有者の自由にできるようにする、というものでした。「近代的財産制の始まり」とも言えると思います。

では、その地租改正は、この北海道でどのように執行されていったのでしょうか。土地所有制を北海道に敷くべく、初期に出された「触れ」は2つあります。「北海道土地売貸規則(ほっかいどうとちばいたいきそく)」と「北海道地所規則(ほっかいどうちしょきそく)」、この2つです。いわゆる地租改正より一足早く、1872(明治5)年に布達(ふたつ)されています。でも、北海道に土地所有制を敷くのに、なぜ規則が2つも必要だったのでしょうか?

北海道土地売貸規則は第1条で、こう書いています。


1872(明治5)年9月布達 北海道土地売貸規則

  • 北海道土地売貸規則
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784408/177
  • 【原文】
    第一条 原野山林等一切ノ土地官属及従前拝借ノ分目下私有タラシムル地ヲ除ノ外都テ売下地券ヲ渡永ク私有地ニ申付ル事
  • 【現代語訳】
    第1条 原野山林などの一切の土地、官属および従前の拝借の分(もっか私有たらしむる地を除く)のほか、すべてを売り下して地券を渡し、永久に私有地とする。

これは、アイヌにとってはまったくお話にならないといいますか……。現に自分たちアイヌがずっと住み続けてきている土地を、「無主地と見なす」と宣言しているのと同じです。そのすべてをこの規則で〈官属〉――当時の用語で「国有地=国の土地」と同じ意味ですから、ようするに北海道の土地の一切は国のものだと宣言して、そのうえで、欲しい者には官(国)が〈原野山林等〉を売ってやる、切り売りしてやる、と言っています。これが開拓使の仕事の基本だったわけです。

この北海道土地売貸規則は全国に布告されました。「北海道には土地が無尽蔵にある、欲しい者にはどんどん渡すぞ」という内容ですから、本州以南の住民で、地元では土地所有のメドがたたない人たちからみたら、「土地が欲しければ北海道に来い」と北海道移住を強く奨励する文書のひとつと映ったと思います。しかしアイヌ民族にすれば法外な文章です。これを知ったら、だれもが「勝手なことを言うな」と思ったでしょう。

「永住人」「寄留人」「土人」

これと同時に「地所規則」も出ています。近代史研究者には「土地売貸規則と一緒に地所規則も出た」と、後者を軽く扱う人が多いようですが、内容をよく見ると、北海道土地売貸規則とは異なり、地所規則のほうは現に北海道に住んでいる人民を対象にした文書であることが分かります。そこには当然アイヌ民族も含まれますから、むしろたいへん重要な文書です。


1872(明治5)年9月布達 北海道地所規則

  • 北海道地所規則
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995331/34
  • 【原文】
    第一条 永住ノ者居屋漁舎倉庫敷地或ハ社寺及ヒ墾成セシ従来ノ拝借地等自今更ニ経界畝数改正永ク私有地ニ定メ地券相渡シ今申年ヨリ七年間除租ノ事
  • 【現代語訳】
    第1条 永住者(北海道居住者のうち、北海道に本籍のある人)の家が建っている土地、漁業のための建物・倉庫の建っている土地、寺社の建っている土地、開墾ずみの農地など、じゅうらい「拝借地」とされてきた土地について、改めて境界線や面積を確認したうえ、永久的な「私有地」として地券を渡す。また、今年から7年間は免税とする。

「拝借地」と出てきますが、いったいだれから借りていたというのでしょう? 政府は、自分たちの1869(明治2)年の北海道内国化宣言にともなって、北海道のすべての土地は自動的に「官有地(国有地)」になったと前提して、これらの規則を書いています。だからここでいう「拝借地」とは、人民が国から借りている土地、という意味です。

さて、アイヌ以外で「現に北海道にすんでいる者」といえば、多くは前代=江戸時代に北海道に渡ってきた漁師たち、漁業に従事する人たちだったでしょう。仕事を終えて本州方面に帰った人もいたでしょうが、そのまま北海道に土着した人も少なくありませんでした。

地所規則は、「現に北海道にすんでいる者」を3種類に区別しています。まず「永住人」。当時は戸籍制度も未完成な段階ですが、北海道に本籍をおく者が永住人と呼ばれました。2番目の「寄留人」は、本籍を北海道外の出身地の村々に登録して動かさないまま北海道に住み続けている者、故郷に帰るに帰れない人もいたかもしれませんが、そういう人たちのことです。そして3番目に「土人」、つまりアイヌです。

そのようにして、現に北海道にすんでいる者たちを対象に、この地所規則は、その人びとに土地を持たせてやる、各自の土地の境界を確定して私有地と認め、地券を渡す、しかもタダで渡す、と定めた文書です。つまり、北海道に残った和人連中はタダで土地所有者になれるという、対象者にとってはたいへんな優遇措置だったわけです。これは北海道だけに適用された制度です。北海道に住んでいた漁民らは、これらの規則に応じて土地を登録することによって、土地を所有する、あるいは土地を借りる、という方向に動いていきます。

いっぽう、アイヌの歴史上、注目すべきは、地所規則第7条です。


1872(明治5)年9月布達 北海道地所規則

  • 【原文】
    第七条 山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改テ是又地券ヲ渡爾後十五年間除租地代ハ上条ニ準スヘシ尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニ非サル事
  • 【現代語訳】
    第7条 これまでアイヌが慣習的に漁猟や伐木を行なってきた山林・川・沢などの土地も、新たに区分けして個人所有者を決めるか、あるいは「村請け(むらうけ)」にして、同じように(「私有地」として)地券を発行し、15年間免税とする。「私有地」とした後は地代納付は不要である。ただし、山の奥深く、地勢のはっきりしない谷、人跡未踏のエリアについては、土地の所有者確定作業はしばらく保留する。

これもまあ、アイヌから見たらナンセンスな文章でしてね……。「深山幽谷人跡隔絶ノ地」だなんてとらえ方を、アイヌはしていなかったはずです。標高2000m級の大雪山(だいせつざん)の山頂付近だって移動ルートに使っていたわけですから。

アイヌへの税制優遇?

ただ、それは別にして、注意しておきたいのは、土地所有者の免税期間が和人とアイヌとで異なっている点です。和人(永住人・寄留人)が7年間なのに対して、アイヌは15年間で、ここではアイヌに配慮がなされているようにみえます。

北海道地所規則による占有地の除租(免税)期間

カテゴリー 除租期間 根拠
和人(永住人/寄留人) 明治5年から7年間 第1条、第2条
漁業海浜・昆布干場(和人/アイヌ) 明治5年から5年間 第3条
アイヌ(個人/村=集団) 地券発行から15年間 第7条

第7条のもうひとつのポイントは、〈持主或ハ村請ニ改テ〉の部分です。アイヌが従来、村ごとにその土地で魚を捕ったり木を切ったりしてきた、と(開拓使が)認めた場合、地券を渡すのはそれらの村ごとでもいいし、だれか代表者個人に渡すのでもいいよ、と言っています。これまた和人とは異なる要件が書かれていました。当時、北海道の河川流域にはアイヌの村々が並んでいましたから、もしこの地所規則の通りに地券発行が実施されていたら、河川流域はあらかたアイヌ(コタン)の所有地になっていたのでは、とさえ思えます。地所規則第7条は、それほどの意味を含んでいる条文です。

迷走する北海道土地政策

このように、1872(明治5)年の北海道土地売貸規則と地所規則が嚆矢となって、以後、紆余曲折を経ながら、北海道の土地私有制が進行していきます。

1874(明治7)年 太政官布告第120号「地所名称区別改定」
1875(明治8)年 太政官布告第195号「捕魚採藻等ノタメ海面借用望ノ者願出方」
1876(明治9)年 漁場昆布場等改正ノ儀(長官お達し)
出典 取裁録 明治十二年 開拓使函館支庁地租創定取調 1879(明治12)
北海道文書館 請求番号 簿書/3584
1877(明治10)年 北海道地券発行条例
1879(明治12)年 海産干場への地券・貸地証の下付

まず、1874(明治7)年の太政官(だじょうかん)布告第120号「地所名称区別改定」をみましょう。この年は、全国で地租改正がいよいよ本格化し始めた時期ですが、「どこからどこまでを官有地(国有地)にして、どこまでを民有地(私有地)と認めるか」という線引きが非常に難しかったとみえて、いわゆる「官民有区分論争」が起きています。府県の反動勢力は「個人に土地を持たせるなんてとんでもない」「天皇の土地を細分化するのか?」という論陣を張りました。そんな紆余曲折の末、ついにこの太政官布告第120号が出ます。

太政官布告第120号
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787954/145

これによると、日本全国の土地をまず大きく「官有地」と「民有地」に区別します。民有地は、現代の「私有地」にあたります。官有地はさらにランクを設けて、皇居など皇室の土地を「官有地第一種」、役所の用地を「官有地第二種」と呼ぶ、としています。そこから区分を進め、最後に民有地を除き、それでも地券を発行できない残余の土地、原文には〈山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ〉と列挙してありますが、これを「官有地第三種」とする、と決めています。こうやって官有地第三種に繰り込んだ土地は、「借りたい者には貸す」となっていて、事実上、売り渡すことも可能という性格が与えられています。つまり官有地第三種とは、「所有者のまだ確定していない、けれども将来の私有化が見込まれる日本中の原野山林」を指していたと考えられます。

次に、これまたアイヌの漁業に関係があると思うのですが、1875(明治8)年の太政官布告第195号「捕魚採藻等ノタメ海面借用望ノ者願出方」が出ています。そこには「これまでお前たちは、海に〈所用ノ権〉があると思っていただろう?」「でもこれからはそんなものはお前たちにはないんだよ」と書いてあります。


太政官布告第195号 1875(明治8)年12月19日

  • 【原文】
    従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採草ノ為所用致居候者有之候処右ハ固ヨリ官有ニシテ本年二月第二十三号布告以後ハ所用ノ権無之候条従前ノ通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事
  • 【現代語訳】
    これまで、お前たち人民は「所用の権」と称して前浜を勝手に区切って、魚を捕ったり海藻を採ったりしてきただろうが、海はもとより官有(国有)であって、今年2月の第23号布告が出されてからは、「所用ノ権」は無効になっている。これまでどおり前浜で漁業を続ける場合は、前出の布告の但し書きに従って、その地区の借用申請書を担当の役所に提出すること。

「所用ノ権」の否定

江戸時代までの漁業は、漁村の人びとが自由に、それぞれの勢力に合わせて自分たちで範囲を決めて、そこで魚を捕っていました。そういう形の権利を「所用ノ権」と呼んでいました。原則として、海は誰のものでもないから、だれが入ろうと勝手。捕りたいときに捕ることができる、それが「所用ノ権」です。最近の用語を使えば、コモンズ(commons=入会権)の考え方に近いんじゃないでしょうか。

しかし新政府はそれを否定して、「海面を利用する場合はすべて管轄庁に願い出て許可を受けなさい」と新たに定めたわけです。

最初に見た1872(明治5)年の法律(北海道土地売貸規則・地所規則)は、実行するにはあまりにも大ざっぱな規定で、実際に北海道で執行するには施行細則のようなものが必要だったのに、それを欠いていました。本州以南の地租改正で、たいへん詳細な実施要綱がつくられていたのとは、対照的です。そこで当時の北海道現地のトップ、松本十郎(1839-1916年)・札幌在勤大判官が1875(明治8)年8月、東京政府に「北海道土地売貸規則並地所規則増補削除ノ儀伺」という文書を提出しています。「ふたつの規則を実施したいが、このままでは使いにくいので、改定したい」という内容です。具体的には「除租(免税)期間を延長したい」という提案でした。

これはたいへんおもしろい提案です。松本は、「北海道はまだ発展途上だから、産業が定着するまでまだまだ時間がかかります」と述べています。特にアイヌに関して、従前から15年間と、和人(7年間)に比べて長くとっていた除租期間をさらに30年に延長したい、と訴えています。

現地からこの訴えに対する黒田清隆・開拓使長官(1840 – 1900年)の回答は、しかし「可相改筋無之」、つまり「却下する」でした。1876(明治9)年7月、ようするに札幌の松本を丸一年も待たせた挙げ句、結局「元の除租期間で実行せよ」と命令を出したのでした。

重要かどうかは分かりませんが、ちょうど同じころ、政府がアメリカからアドバイザーとして招聘中だったケプロン(Horace Capron, 1804-1885年)が、黒田に余計なこと(笑)を言っているんですね。黒田清隆自身が「北海道の漁業政策をこれからどうしたらいいか」と諮問したようです。ケプロンは「現在の北海道漁業は旧態依然としていて、水揚げしたものから単に税を取っているだけだ。このままでは漁業の発展はない。アメリカやヨーロッパはそんなケチなやり方をしていない。日本も北海道の漁業を近代的な産業に育てなければならない」と答えて、一例としてサケの缶詰生産などを提案しました。世界交易への参加を日本政府に促したわけです。こんなこともあって、東京の黒田は札幌の松本に対して「いまさら規則変更などと言わず、とっとと取りかかれ」と回答したんだと思います。

狙われた「漁場昆布場」

松本提案を蹴った後、黒田清隆・開拓使長官は1876(明治9)年、「漁場昆布場等改正ノ儀」を布達します。


1876(明治9)年「漁場昆布場等改正ノ儀」

  • 【原文】
    地所規則発令以来既ニ五年ニ及タレ共、漁場昆布場等絶テ確定ナル調査ヲ経ス。永住人所持ノ分未タ地券ヲ下付セス、寄留人拝借ノ地未タ精査ヲ加ヘス。除租年限ハ本年ヲ以テ満期ナレトモ、調査挙ラサル上ハ租額ヲ制定スルノ基本ヲ得ス。加フルニ漁場持ノ弊習昔日ニ異ナルナク唯広大ナル場所ヲ占有シ十分ナル漁業ヲ施サス、却テ移住人ノ新ニ開業スルヲ猜疑シ、人民繁殖ノ妨害ヲ為セリ。
    (略)
    自今一切漁場持ヲ廃シ、都テ上地申付、且寄留人ニテ全部又ハ一部拝借ノ分ハ、其実猶漁場持ニ類似ノ習慣ヲ存シ、加フルニ漁場昆布場等地所規則公布以来未タ精確ナル調査無之、家屋倉庫敷地等ノ経界畝数判然不致ニ付、一先上地申付ヘシ。
  • 【現代語訳】
    地所規則の発令からすでに5年が経過しているにもかかわらず、漁場・昆布場などの土地の境界や面積を確定するための調査はいっこうに実施されていない。永住人に渡すとした地券の発行も行なわれていない。寄留人の拝借地も未調査である。免税期間は今年で終わるのに、土地に関する調査が行なわれていないので、税額を決めるための基本情報がない。おまけに、「場所請負制」を廃止して「漁場持ち制」に切り替えたのに、悪習は以前と何も変わらず、漁場持ち業者たちはいたずらに広大な漁場を占領するだけで、ちゃんとした漁業をしていない。そればかりか、新規参入者が開業しようとするのを妬んで、「人民繁殖」を妨害している。
    (略)
    これより以降、すべての漁場持ち制を廃止する。その土地はすべて官有化する。寄留人が借りている土地にも漁場持ちと同じような形態が残っており、地所規則(1872年)公布後もきちんと実態調査がなされておらず、家屋・倉庫・敷地などの境界や面積が判然としないので、これらもいったん官有地に繰り入れる。

北海道から税金を取ると言ったって、内陸部の人口はわずかですから、取りようがありません。そこでまず海岸部の〈漁場昆布場〉の所有化から取りかかれ、と言っています。1872(明治5)年の地所規則では〈漁浜昆布場〉(第3条)という言葉でしたが、指している意味は同じです。そして、面積を確定するのに「建網1カ統あたり」とか「船一艘あたり」とか、漁業種別に土地面積の目安が示してあります。たとえば当時のサケ漁業は川でも行なわれていましたが、川ぶちの土地もまた「漁場昆布場等」に含まれていたことが分かります。


面積の基準 1876(明治9)年「漁場昆布場等改正ノ儀」から

  • ニシン建網1カ統あたり1000坪(3306㎡=100m×33m)
  • サケ建網1カ統あたり500坪(1653㎡=50m×33m)
  • 昆布刈り船1艘あたり450坪(1488㎡=50m×30m)

そのうえで、同じ1876(明治9)年9月に「漁浜昆布場地租創定順序心得」「漁浜昆布場地価検定心得」という、いわば実施要領がつくられます。「地租創定」とあるのでそっちに目を奪われがちですけど、これは土地所有権の確立にほかなりません。「漁浜昆布場」のみがほかの地種に先だって土地所有の対象とされた点に、北海道の特徴があらわれていると思います。

さきほどみた「所用ノ権」がここにも出てきます。近世以来の〈捕魚採藻ノタメ〉の〈所用ノ権〉を一度否定したうえで、改めて借用の願いを提出させること、と書いています。国家が海面を支配し、その利用、つまり漁業の権利が、国家が直接許認可する物件だと規定されました。この措置が、それまで一般的に海面および海岸地面を合わせて漁場と呼び習わしてきた空間を、地面と海面に法的に分割し、地面には土地所有権を、海面は漁業権を設定する根拠になっていきます。

「旧土人住居ノ地所ハ…総テ官有地第三種ニ編入スヘシ」

このような道をたどってきた土地所有化の制度設計が、1877(明治10)年の「北海道地券発行条例」に結実します。


1877(明治10)年 北海道地券発行条例

  • 北海道地券発行条例
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995340/99
  • 【原文】
    第一条  土地ノ種類ヲ分チ宅地耕地海産干場牧場山林トシ官有地ヲ除クノ外人民各自之ヲ所有セシメ其経界歩数ヲ正シ地位等級ヲ定メ地券ヲ発シ地租ヲ課ス
  • 第十六条  旧土人住居ノ地所ハ其種類ヲ問ス当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ但地方ノ景況ト旧土人ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ
  • 【現代語訳】
    第1条 土地を、宅地・耕地・海産干場・牧場・山林のいずれかのカテゴリーに分類する。そのうえで、官有地以外の土地は、すべて人民の所有地にする。それぞれの所有地は境界線を定め、面積を測量して等級を決定し、所有者に地券を発給して、課税する。
  • 第16条 旧土人(アイヌ)が居住している土地は、当面は、すべてを「官有地第三種」にする。地元の発展状態やアイヌの同化状況をみはからって「成規ノ処分」(和人の土地所有者と同じ手続き=カテゴリー決定・境界画定・測量・地券発行・課税)を進める。

ここにある「海産干場」は、さきほどの「漁浜昆布場」「漁場昆布場等」と同じ種別です。

さて、ここで問題になる部分があります。先ほど確かめたように、1872年の地所規則第7条は、アイヌの土地所有を許していました。その対象は〈漁猟伐木仕来シ地〉、つまり慣習上、アイヌが利用していた土地を指していますから、アイヌが狩猟する土地も入りますし、漁猟をする地先の海面・沿岸も含まれていたはずです。そのような土地をアイヌの個人所有もしくは村請け(集団所有)にする、というルールでした。

ところが、5年後の1877(明治10)年の北海道地券発行条例では、それが〈旧土人住居ノ地所〉という名前に変わってしまいました。魚を捕っていた場所だろうが何だろうがそこは含まず、〈住居ノ地所〉つまり「お前が住んでいる場所」だけに限定し、そのうえ〈当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ〉つまり「まずは全部を官有地第三種として扱う」となっています。そうやってアイヌの土地をこうやってまず官有地にしてから、〈地方ノ景況ト旧土人ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス〉つまり「開拓の進行とアイヌの“近代化の具合”をみながら所有化を図る」という規定です。

ここが問題なんです。当時のこの政策について、たとえば1900年前後に『北海道殖民状況報文』(北海道庁殖民部拓殖課)をまとめた河野常吉(1863―1830年)などがそうですが、後の時代の近現代史研究者は、「アイヌの土地をまず官有地化して保持してあげたんだ」「いずれアイヌが近代化したらその土地の所有を認めるわけで、これはアイヌに対する保護政策だった」という解釈が主流だったと思います。

でも私には、そうとは考えられません。アイヌの住んでいる所であろうとなかろうと、すべて官有地にしちゃったら、その後に(非アイヌが)そこを利用したい、買いたいと願い出てくる者がいたら、役所は拒めない規定になっています。先ほど見たように、官有地第三種とはそういう性格のカテゴリーだったわけです。案の定、この1877(明治10)年以降に各地で起きるアイヌ集団の強制移住などは、すべて“合法的”に行なわれています。ずばりこの北海道地券発行条例第16条の執行を理由に行なわれた強制移住もありました。これは決してアイヌ保護政策などではなかった、と考えられると思います。

さて、ここまで駆け足で明治初年の開拓使の土地政策を跡づけてきました。とりあえずここで止めて、ご質問があれば、可能な範囲でお答えしたいと思います。


ディスカッション

齋藤暖生さん
たいへん勉強になりました。ありがとうございました。僕も森林政策を中心に「コモンズ」や「入会」のことを調べています。海の入会に関して、1875(明治8)年の海面官有宣言(太政官布告第195号など)の後、津軽海峡以南では、1年でそれが頓挫しています。各地の漁民の猛反発を受けて、明治政府は海面官有を取り下げてしまいました。政府はその後、まさに津々浦々に調査員を派遣して、それぞれどういう漁業が行なわれてきたのか、その場所ごとの慣習を調べて、それをもとに1901(明治34)年の明治漁業法ができあがっていきます。そこでは、漁村単位での海面占有のようなもの、つまり共同漁業権を認めるに至っています。それに対して北海道では、開拓使などが津々浦々を廻って漁業慣習を調査してまわったというような形跡はないんでしょうか?

瀧澤 正さん
僕の知る限り、なかったと思います。太政官布告第195号「捕魚採藻等ノタメ海面借用望ノ者願出方」では、これまでの「所用ノ権」を否定して、政府はたいへん強い態度に出ていたと思うんです。ただ、北海道では「津々浦々の漁業慣習」は、具体的には成立していなかったんじゃないでしょうか。

飯沼佐代子さん
「慣習が成立してなかった」というのは、アイヌの慣習的な漁業利用を政府が認めなかった、という意味でしょうか?

瀧澤 正さん
明治以前の政府というと、松前藩がそれに当たるでしょうか。でも松前藩の頭には、「アイヌの慣習的漁業」というカテゴリーはなかったんじゃないかと思います。ただし、アイヌの共同体同士の間では、独自の漁猟圏(イウォロ)の相互認証のようなものがあったようです。たとえば、サケ漁の入会(権)です。日高幌別川(ひだかほろべつがわ、日高国浦河郡)では1875(明治8)年ごろまで、地元のウラカワアイヌが、隣接する様似郡のサマニアイヌの入漁を認めていました。また、ニシン漁場でも、たとえば後志国(しりべしのくに)余市(よいち)郡のヨイチアイヌは、西隣の忍路(おしょろ)郡の漁場に漁猟権を持っていたようです。

小坂洋右さん
太政官布告について、東京大学の菅豊さんが、『川は誰のものか―人と環境の民俗学』(吉川弘文館、2006)という著書の中で触れています。それによれば、当時、国は最初は一律に全部を「国家保有」にしようとしたんだけれど、各地地方から強い反発が出て、結局は都府県庁が管理権を持つ形になった、と私は理解しています。でも北海道だけは、その動きから外れているように見えます。本来なら慣習法として認めるべきアイヌ民族の漁業を排除して……。当時の都道府県の中で、なぜ北海道だけが異なる位置づけだったか、その本を読みながら疑問に思っていたのですが、瀧澤さんのご研究はそこに触れていると思いました。この部分をみんなでもっと解明していく必要があるんじゃないか、と思います。

齋藤暖生さん
そうなんですよ、本州以南の地域では、政府が津々浦々を調査して、それぞれ漁村が維持していた慣習に沿って共同漁業権を設定していったわけです。その共同漁業権を漁民に免許するのは、都府県知事。瀧澤さんのお話では、ここに「道」は入っていません。北海道とそれ以外の都府県とでは扱いがかなり違ったんだな、と改めて認識できました。北海道と本州以南とを対比するアプローチで、浮かび上がってくるものがあると思います。

瀧澤 正さん
少しつけ加えましょうか。北海道では、先ほど述べた規則等が出る以前は、場所請負制による漁業が行なわれていました。明治政府による北海道における法規制は、その場所請負制をどうやって解消するか、という命題を含んでいたわけです。(本州以南で)「漁場・漁村ごとの慣習」が成立していたとしたら、北海道で対比されるべきは「場所ごとの慣習」になるのかもしれません。とすれば「場所の慣習」は(場所請負制および漁場持ち制度の廃止にともなって)断ち切られただろうと思います。しかしその「場所の慣習」とは、いわゆる(アイヌを含む)漁民のものではなく、イニシアチブを握っていた商人(場所請負人)のものだったと思うんです。あくまで、どうやって商業的な利益を得るかという観点でコントロールされていたものです。漁場ごとに漁民の主体性が発揮され、それぞれ固有の慣習がその地域で形成されていた本州以南のケースと同列に扱うことはできない、と私は思います。

齋藤暖生さん
場所請負制は、交易産品を扱いますから、記録に残りやすい。ただ、そのいっぽうで、記録に残らない生業としての漁業活動があったはずです。なにしろ記録がないので今となっては実態は分からないわけですが……。

瀧澤 正さん
もちろん、場所請負制の帳簿に残っていない、漁民による慣習的な漁業も確かにありました。「アイヌの自分稼ぎ」と呼ばれるものです。アイヌが、自分や家族が冬を越すための食糧としてサケを捕るとか、小遣いを稼ぐために海藻を採るとか。そうしたアイヌの漁業が土地ごとに行なわれていたのは確かです。それが「慣習」と呼ばれるべきものかな、と思います。

小坂洋右さん
ちなみに、江戸時代のアイヌの「自分稼ぎ」というのは、場所請負制度の外側で、アイヌが魚を捕るなどしていたことを指します。でも明治時代になると、それも認められなくなります。京都大学の岩崎奈緒子さんの一連の研究や、北海道大学の谷本晃久さんの研究が参考になると思います。

高原実那子さん
アイヌ語の地名には、「イチャン(サケの産卵床)」とか、漁猟の時期に番屋を建てる場所とか、生業に深く関わる情報が込められている場合があります。でも(1710年代以降に)場所請負制が入ってきて、アイヌの人たちのそれまでの生活スタイルも変わってしまって、もはや「慣習的」と言えない状況になっていったと思います。ただ、そうした中でも、古い地名がそのまま残ってきた場所はあって、古い時代のアイヌの慣習を把握する材料になると思います。北海道の場合は、場所請負制にともなう和人商人のスタイルの影響が非常に強かったので、本州以南とは違って、近代化時代以前のアイヌの慣習を探るのはなかなか難しいけれど、残されたアイヌ語由来の地名からヒントを得られるのではないか、と思っています。

瀧澤 正さん
土地ごとに慣習的な漁業が生きていたかどうかを判断するのは非常に難しくて……。1876(明治9)年に始まる「地租創定」と呼ばれる事業では、開拓使が官僚を現地に派遣して、区画の調整にあたらせています。その際、たとえば根室国目梨郡・標津郡の西別川のように、アイヌが慣習的にサケを捕っている、と認定されたケースもあります。そうした地域の経過を詳しく調べたら、アイヌの慣習的漁業について解明できるかもしれません。アイヌ語地名から遡及できるかどうかは分かりませんけれど……(笑)。僕は「官」の記録を研究する方法をとっているのですが、この西別川では、上流部に「海産干場」が設定され、地元の数人のアイヌに与えられています。またこの時期には、多くのアイヌが、西別川の北方を流れる別の数本のサケ遡上河川に移動させられたりしています。じゃあ、それ以前のアイヌの(場所請負制度の枠外の)サケ漁がどのようなものだったのか……。調べてみるとおもしろいと思います。


脚注

[1] 瀧澤正「明治初年漁場政策とアイヌ民族」北海道大学博士論文、学位授与番号甲第8884号、2009
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000010532838-00


(2022年8月29日、オンライン学習会から。構成・平田剛士)